Villa Bianca
原宿 ビラ・ビアンカ物語
物語の幕開けは、1964年。昭和の東京オリンピックの年でした。
いまではヴィンテージマンションと呼ばれるビラ・ビアンカの完成は、1964年5月。
なんと工期は11ヶ月でした。
物語の幕開けは、1964年。昭和の東京オリンピックの年でした。
いまではヴィンテージマンションと呼ばれるビラ・ビアンカの完成は、1964年5月。
なんと工期は11ヶ月でした。
原宿竹下通りから明治通りに抜けて、左に曲がって新宿方向に進み、立体歩道橋を過ぎると、右側に一風変わった建物が現れます。
ガラスとコンクリートの立方体がテラスの空間とともにグリッドをつくる威風堂々とした外観は、時代を超えて人の目を惹きつけます。
その立方体の角を支える突き出た二本のコンクリートは、まるで正倉院の校倉(あぜくら)造りの校木(あぜき)のようです。
堅牢な外観からは想像ができない、ポップな一面をもっているビラ・ビアンカ。
青海波のような刻印があるコンクリート壁面のかわいいガラスブロックの窓や、幅の狭いドアのクスッと笑ってしまうガラスブロックの配置から、遊び心が感じられます。
60年前に考えられた近未来のキッチンは、それ自体のフォルムが斬新ですし、ディスポーザーまで付いていました。キッチンからリビングが見渡せる、今でこそ人気の対面キッチンになっています。
この建物の60年に及ぶ物語を彩るのは、建物そのものだけでなく、ビラ・ビアンカを住居としてきた著名人です。
骨董の目利きとして知られ、自分の周りには自分の気に入ったものしか置かなかった青山二郎は、完成を待ち焦がれて入居しました。
ハスキーボイスのブルース歌手・青江三奈や矢沢永吉もここに住居を構えました。北野武も入居を検討したそうです。
現在のビラ・ビアンカの居住者は、この外観に一目惚れした人や、元々ここを知っていて、ぜひ、住んでみたいと思った人たちです。
アパレル業界では、ここに事務所をもつと飛躍できるという、験担ぎ的な話もあるそうです。
実際、事務所としてはアパレルやデザイン系のおしゃれな事務所が入居しています。
1980年代のほんの2年間でしたが、地下には「ピテカン」と呼ばれた「ピテカントロプス・エレクトス」という伝説のクラブがありました。アパレル業界の人たちが牽引し、テクノポップ・バンドや坂本龍一のライブが行われ、NYやロンドンではなく、東京から世界に発信する、最高におしゃれな場所で、海外から多くのアーティストが訪れました。
「ピテカン」は、おしゃれな人たちが集まる情報発信基地で、当時の若者にとっては、憧れの場所でした。ただでさえ敷居の高い場所だったで、若者たちは地下に降りる長い回廊階段には面食らったことでしょう。
今でもその回廊階段は健在で、その階段の先には、内装品をすべてメキシコから取り寄せた30年続くメキシコ料理の老舗があります。
日本カルチャーの中心であったビラ・ビアンカ。
地下に広がる空間から、様々な流行が生まれました。
ドコモモは、モダン・ムーブメントの推進に寄与した建築の歴史的、文化的重要性を訴え、その記録と現存建物の保存に関する活動を展開する国際的学術組織です。
ビラ・ビアンカは、歴史的・文化的価値が評価され、ドコモモの日本支部から「日本におけるモダン・ムーブメントの建築250選」に選ばれました。