青山 二郎
(入居期間:1964〜1979年)
1964年のビラ・ビアンカ完成を待ち望み、二軒を繋げ、オリジナルの家具を作り、ベランダを自分好みの庭園にして、暮らしました。
16歳から骨董を買い始め、生涯を骨董とともに生きた粋人。卓越した美的センスで身の回りには自分の気に入ったもの以外は置きませんでした。生涯、職業には就きませんでしたが、小林秀雄、中原中也、室生犀星などから頼まれた、本の装幀は、相当な数にのぼります。
小林秀雄、大岡昇平、白洲正子などが彼の元に集まり、夜ごと酒を酌み交わし議論を交えたので「青山学校」とか「青山学院」と呼ばれました。白洲正子はその著書『いまなぜ青山二郎なのか』の中で「ジイ(二郎なので)ちゃんが最後まで住んでいた家をなつかしくて訪ねたまでである。それは原宿の近くのビラ・ビアンカというマンションで、オリンピックの年にできたというから、いわばマンションのはしりである。」と書いています。
文化勲章受章者の永井龍男は青山のことを、昭和初期から「伝説上の人物」だったと書いているので、会ってみなければわからないような、大人物だったことは間違いありません。
青山と一緒にビラ・ビアンカに入居した和子(かずこ)夫人は、急須や掛け軸から碁盤まで詰め込んだオペルを運転して志賀高原や広島まで走ったそうです。自分の回りに置くものは、たとえ旅先でも気に入ったものしか受け付けなかったのでしょう。和子夫人は青山の4番目の妻で27歳年下だったので、2003年まではビラ・ビアンカで暮らしました。