Lived

過去の住人たち

Lived

青山 二郎

1901(明治34)年6月1日〜1979(昭和54)年3月27日 享年77歳
(入居期間:1964〜1979年)

1964年のビラ・ビアンカ完成を待ち望み、二軒を繋げ、オリジナルの家具を作り、ベランダを自分好みの庭園にして、暮らしました。

16歳から骨董を買い始め、生涯を骨董とともに生きた粋人。卓越した美的センスで身の回りには自分の気に入ったもの以外は置きませんでした。生涯、職業には就きませんでしたが、小林秀雄、中原中也、室生犀星などから頼まれた、本の装幀は、相当な数にのぼります。

小林秀雄、大岡昇平、白洲正子などが彼の元に集まり、夜ごと酒を酌み交わし議論を交えたので「青山学校」とか「青山学院」と呼ばれました。白洲正子はその著書『いまなぜ青山二郎なのか』の中で「ジイ(二郎なので)ちゃんが最後まで住んでいた家をなつかしくて訪ねたまでである。それは原宿の近くのビラ・ビアンカというマンションで、オリンピックの年にできたというから、いわばマンションのはしりである。」と書いています。

文化勲章受章者の永井龍男は青山のことを、昭和初期から「伝説上の人物」だったと書いているので、会ってみなければわからないような、大人物だったことは間違いありません。

青山と一緒にビラ・ビアンカに入居した和子(かずこ)夫人は、急須や掛け軸から碁盤まで詰め込んだオペルを運転して志賀高原や広島まで走ったそうです。自分の回りに置くものは、たとえ旅先でも気に入ったものしか受け付けなかったのでしょう。和子婦人は青山の4番目の妻で27歳年下だったので、2003年まではビラ・ビアンカで暮らしました。

©飯田安国

矢沢 永吉

1949(昭和24)年9月14日〜
(入居期間:1978年〜)

矢沢永吉は『アー・ユー・ハッピー?』(角川文庫)にこう書いています。

「原宿から新宿のほうに向かう明治通り沿いのマンション、ビラ・ビアンカの部屋を借りた。
一九七八年、「時間よ止まれ」が出て、「ゴールドラッシュ」が出て、もう、そのころは「スーパースター矢沢永吉」だった。(中略)レコーディングの帰り、そこに行く。冷たいビールとサラミとイカのさしみ。彼女がいて、酌してくれるだけで、どんな豪勢な料理よりうまかった。この時間が最高だった。外には一切出ない。ここが二人の隠れ家だった。」

矢沢は1980年には渡米したので、ビラ・ビアンカに住んだのはあまり長い期間ではなかったのかもしれませんが、本にまで書くということは、相当、心に残ることだったのでしょう。

2022年8月末、デビュー50周年コンサートが新しくなった国立競技場で開催されました。9月に73歳を迎える彼のエネルギッシュな歌、汗まみれになっても停まることなく動き続けるパワーはどこから出てくるのでしょう。ファンが投げるタオルが宙に舞う。「時間よ止まれ」を歌ったときには、会場からほど近いビラ・ビアンカ時代のことを思い出したでしょうか。

青江 三奈(本名 井原 静子)

1941(昭和16)年5月7日〜2000(平成12)年7月2日)
(入居期間:1969〜1979年)

昭和40年代から平成初期まで活躍したハスキーボイスのブルース歌手。

高校時代から「銀巴里」(※)のステージに立ち、デパート勤務、クラブ歌手を経て歌手デビュー。

1968(昭和43)年『伊勢佐木町ブルース』で第10回レコード大賞歌唱賞、第1回有線大賞スター賞受賞。ミリオンセラーを記録しました。
その色っぽい「アーンアーン」「ドゥドゥビ ドゥビドゥビ ドゥビドゥバ」は小学生にも大人気で、ものまねする子もたくさんいました。

1970年代には、芸能人長者番付歌手部門のベスト10に5年連続でランクインしています。
(※):1951(昭和26)〜1990(平成2)年まで銀座7丁目にあった日本初のシャンソン喫茶。オーディションに合格した美輪明宏を代表とする多くの著明なシャンソン歌手がステージに立ちました。

荒勢(本名 荒瀬 英生)

1949(昭和24)年6月20日〜2008(平成20)年8月11日)享年59歳

高知県出身で日本大学相撲部を経て花籠部屋に入門した大相撲力士。

一徹ながぶり寄りと長いもみあげで人気でした。初土俵は1972年初場所、1973年名古屋場所で新入幕。最高位は東関脇。1981年の引退後はタレントとしても活躍しました。1983年五社英雄監督、緒形拳主演の『陽暉楼』の紫雲竜(やくざ役)で俳優デビュー。テレビ朝日「トゥナイト」では温泉リポーターも担当しました。他の出演作には、映画「自由な女神たち」「唐獅子株式会社」「北の蛍」、NHK大河ドラマ「春の波濤」などがあります。

2001年には、自由連合から比例代表で参議院議員通常選挙に出馬しましたが落選。

2008年4月に脳梗塞を発症し、実家がある高知県で療養していましたが、心不全のため亡くなりました。下戸だったそうです。

安西 水丸(本名 渡辺 昇)

1942(昭和17)年7月22日〜2014(平成26)年3月19日 享年71歳
(入居期間:1979〜2014年)
イラストレーター

お酒は、新潟県村上市の宮尾酒造の「〆張鶴(しめはりづる)純」が好きだったそうです。

「〆張鶴」の梅酒のラベルは今でも安西水丸デザインです。

富山の<かげろうの花>のラベルをデザインした時には、裏のラベルにデザインを引き受けた理由を書いています。
「いつのころからか日本酒が好きになった。ぼくは和食で酒を飲むのが好きで、そんなこともあって、しだいに酒の好みは日本酒になった。ところが、日本酒といってもさまざまで口に合うのもあれば、まったくだめなものもある。

一流の割烹の一流の料理人でさえも、あまり酒というものには気や心をくばらないとみえ、料理はすばらしいのに、意外に酒がだめだったりする。それとなく酒について尋ねることがあるのだけれど、”こちらとは長いつきあいでして”などといった返事がかえる。どうも長いつきあいが、酒の質をおとしているようにおもえてくる。数年前、関矢さんの依頼で<かげろうの花>のラベルを書いた。書いてみようとおもった、第一の理由は<かげろうの花>という名前が気にいったことだ。ところが、なんとこの酒のいけること絶品だ。いい酒のラベルを書いたとおもっている。」

※参考文献
書籍
『青山二郎の素顔』 森孝一編 里文出版 1997
『いまなぜ青山二郎なのか』 白洲正子 新潮文庫 1999
『天才青山二郎の眼力』 白洲信哉 新潮社 2006
『別冊太陽 青山二郎の眼』 平凡社 1994
『アー・ユー・ハッピー?』矢沢永吉 角川文庫 2001
『にっぽんセクシー歌謡史』 馬飼野元宏 リットーミュージック 2021
『諸士乱想 (トークセッション18)』 船戸 与一 ベストセラーズ 1994
『ブルーインク・ストーリー 父・安西水丸のこと』 安西カオリ 新潮社 2021